法律日本語はそもそも外国語の訳だから (Japan imported modern concepts from West)

日本の法文だの契約用語だの、さらには情報工学等の理工系の文章も、概念は欧米から輸入したものだ。

だからそもそもが、こうした「日本語」は、真の日本語(やまとことば(和語)を原初に、漢語を加えたもの)ではない。

現在の「日本語」と称するものも、すっかり、欧米語の逐語訳に呑まれて、意味不明なものがまかり通っている。

例えば、”nature”(artifactでないもの)の逐語訳に「自然」が対応付けられている。
しかし、「自然」は、そのような意味ではなく、「自然に」「自然な」といった副詞・形容詞的に用いられる、「自ずと然るべく」のことだ。

例えば、”liberty”の訳語に「自由」という語が割り当てられている。
これは完全な誤訳である。
なぜならば、”liberty”とは、解放されている、隷従させられていない、という意味だから。

だから、”free software”や”libre”にしたって、どう引っくり返っても、今の日本人には概念すら理解をし難い。

“democracy”を「民主主義」というのも誤訳だ。
そもそも「民」の語は、「君主」との対義として用いられてきた経緯がある。
だからつまりは、明治期だかに「民主主義」などといっていたのは、言外に、「天皇からもらった権限だ」という露骨なニュアンスを含んでいる。

“right”を「権利」というのも誤訳だ。
“right”とは、自然な法則として正しいという意味なのだから。
つまりは、当たり前の道理のことを”right”という。

“human right”を「人権」というのはもはや狂気の沙汰で、絶対に、意味が解るわけがない。
“humon right”とは、ヒトであるからには当たり前のことなのだ。
それを「人権」と訳すのは、露骨に、「与えられたもの」という意を表している。
「天賦人権論」などというが、この「天」は創造主(ヤハヴェ、アッラー)に相当する者のことであるはずだ。
だが「天」という漢字は元来、中国の多神的概念に基づくものだ(例えば弁天だの韋駄天だのというように。しばしばインドのバラモン教の天神達を訳してヤマ天だのイダ天だのともいっている)。
そして「天皇」といったときには、漢語概念とあいまりつつも、君主の祖先を太陽神と習合させつつ「天皇」と呼んでいるのであって、このときは漢字の「天」を逸脱して、やまとことばの「あめ」(”sky”等に相当する)概念を混ぜている。
だから「天賦人権論」といったときにはまず、天皇や天照大神のことが一発で想像されてしまう。で、「天神に与えられた権利」という、あたかも権限の恩賜を受けたようなニュアンスがひしひしと、露骨に、出てくる。

思い返せば既に、大昔に漢語を輸入した時点で、誤訳とすり替えパラダイスなのだが、
同じようなことが明治期以降にも行われたのだ。

「法律」の用語にしても、江戸時代以前の概念を混ぜつつも、欧米語の逐語訳をつくって引き写されている。
“law””legal”等といった語が、「法」「法律」等と訳されていることからして既に、「大宝律令」の「律」、「武家諸法度」の「法」といった概念をとっている。
そしてこれらは、お上から下された規律なのであって、デモクラシーではない。

本質を知らずに欧米から輸入して逐語訳した「コピペ」文であるから、日本語法文などにしても、日本語ではなくむしろ欧米語に近い。

実際に、日本の「法律」や契約書などの部類で用いる文章は、市井の多くの人々を煙に巻いていて、一般人の多くには理解されない。嫌われている。

こうしていまも、日本にはデモクラシーがない。

 

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